*実家の茶の間 新たな出発(特別編)*
2022年10月17日
ー運営8周年 みんな頑張ったよー
ーアンケート結果からも浮かぶ「誇り」―
<お祝いはマスクと手作りお菓子>
10月17日、新潟市の「実家の茶の間・紫竹」には浮き浮きした雰囲気が漂っていた。この日は実家の茶の間が運営8周年を迎える「記念日」だった。玄関を入ると、お当番さんから「祝8周年」と書かれたマスク1箱と沖縄の代表的お菓子サーターアンダギーをいただく。お菓子は実家の茶の間運営委員会代表の河田珪子さん手づくりのものだ。そして、もう一つ、8周年ならではの「お土産」も参加者に手渡された。それは8周年を機に利用者やお当番さんの生の声を聞いた例のアンケート調査結果だった。1枚目には「今後の運営に生かしたいとの思いからアンケート調査を行ったこと」や、「もれなく記入いただくため、お当番さんと新潟医療福祉大学の学生さんにお手伝いをいただき、53人からお答えいただいた」ことなどが記されていた。
<これからも、みんなで生きていこ!」>
写真=8周年を迎えた実家の茶の間。サポーターの男性お二人がこれまでの苦労を語り合っていた
11時過ぎ、大広間には利用者やお当番さんら40人近くが集まっていた。コロナ禍前の周年事業には立錐の余地もないほどの人が集まったが、この3年はコロナ禍の下でも工夫しながら周年のお祝いを続けてきた。今年は一番人気のカレー昼食を前に、「にわかセレモニー」が始まった。河田さんが大広間の真ん中に立って挨拶を始めた。明るい表情だ。
「実家の茶の間は、皆さんが3つの約束事を守ってきてくれたから、8周年を迎えることができました」と河田さん切り出した。3つの約束事とは「どなたが来られても、『あの人だれ!』という目をしない」「プライバシーを聞き出さない」「その場にいない人の話をしない」―のことで、「実家の茶の間の憲法」とも言うべきものだ。河田さんは続けた。「これからも、みんなで助け合って生きていきましょう。この3つのルールを守っていく人同士なら困りごとがあっても助け合っていけますよね。これからも3つの約束事を大切にして、実家の茶の間を続けていきましょう」。素晴らしいメッセージだった。
写真=河田珪子さんが8周年の感謝を語った
<石上先生からアンケート結果の紹介>
河田さんは自らの挨拶を終えると、「次は新潟市長として、この実家の茶の間を新潟市の協働事業としてスタートさせてくれた篠田さんからお話をいただきます」と一方的に紹介した。河田さんはいつも「無茶ぶり」だが、こちらも挨拶をしない訳にはいかない。「皆さんの8年のご協力で、実家の茶の間が居場所として、助け合いの場として、全国のモデルに育ったことに深く感謝しています」と述べさせてもらった。
次は、今回のアンケートの取りまとめや分析に当たってくれた新潟医療福祉大の石上和男教授から「アンケート結果の講評」が語られた。「一番びっくりしたのは、利用者とお当番さんとの間で、意識の差がなかったこと」と石上先生は言う。「ここにはサービスの利用者はいない。居るのは場の利用者だけ」と、河田さんたちは実家の茶の間のモットーを謳っているが、石上先生は「お世話する側と、される側との垣根がないなんて、そんな筈はないでしょう」と内心思っていたという。「でも、本当でした。どちらも実家の茶の間にいらっしゃることで何らかの役割を果たせることを喜びとし、自己実現の場としていることが今回のアンケートで分かりました。これはホント、驚きでした」と石上先生は語り掛け、参加者はみんなうなずきながら聞き入っていた。実家の茶の間に参加していることは、利用者とお当番さんにとって、共に誇りなのだ。今回の利用者アンケートは、実家の茶の間の「8年間の到達点」を示すものとなり、今後の運営の道しるべともなるだろう。
写真=アンケート結果を手に、内容を紹介する石上和男・新潟医療福祉大教授
<地域の方からも「絶対に必要」>
次いで、河田さんは地域の老人クラブ会長の宮田久夫さんを指名した。実家の茶の間の目指す方向の1つに、「地域の方に広く門戸を開放し、多くの方からの活用されることで地域の宝となる」ことがある。今回のアンケートでも「老人クラブの集まり」や「地域の踊りの会」などに活用されている現状が確認された。宮田会長は語り出した。「ここができる前は、集まりと言うと鉄道線路を超えていく所しかなかったんです。この施設ができて、河田さんたちが『地域の皆さんもお気軽にどうぞ』と言ってくれたお陰で、本当に便利になり、活動しやすくなりました。ここは老人クラブにとっても宝なんです」との趣旨だった。
写真=地域の老人クラブ会長の宮田久夫さんも挨拶
アンケートで「実家の茶の間のような居場所は今後も必要ですか?」との問いに、「必要。ぜひ続けてほしい」「健康と生きがいづくりのために必要」などの答えに交じって、「老人クラブの存亡に関わる事で、絶対に必要」との答えがあったことを思い出すご挨拶だった
<発足時の秘話も明らかになった>
挨拶の最後には新潟市政策調整官、望月迪洋さんが指名された。望月さんは、青空記者が地元紙に務めていた時の3期先輩で、ものの見方の角度が青空記者とは違う方なので、地元紙を退職後に、市長として市の政策調整官に就くことをお願いした方だ。主に福祉や農業分野で市長の特命事項を担当する一方、市組織からは市長になかなか上りにくい課題についても別ルートで伝える役割を担ってきた。篠田市政には欠かせない方だったが、今の中原八一市長からも同じポジションを依頼されている。
河田さんは望月さんの紹介で、「実家の茶の間・紫竹」発足時の秘話に触れた。「私たちが運営してきた『うちの実家』の活動を終える2013年ごろから、国の地域包括ケアシステム推進が本格化してきました。これまでの私たちの経験が求められているのではないか?何かやらなければならないではないか?―そう自問し始めて、2014年に望月さんに相談したんです。そしたら、『もう一度、うちの実家のような居場所を、新潟市との協働事業で再現してくれませんか』と提案された。これには私も驚きましたが、結局、そのことから実家の茶の間がスタートすることになったんです」と河田さんは語った。
2014年6月、青空記者が市長時代に河田さんと望月さんが一緒に面談に来られた。その時、「新潟市との協働事業で茶の間を運営できないか」との申し出をいただいた訳だが、当初、記者は「河田さんが言い出しっぺで、望月さんが庁内調整をした上で持ってきた構想」と思っていた。みんなの前で、「望月調整官からの提案だった」ことが明かされたことは初めてではないか。
<「地域を超えた宝になっている」>
写真=挨拶する新潟市の望月政策調整官。実は「実家の茶の間」の提案者だった
その望月調整官が話し出した。「行政との協働事業は、口で言うほど簡単な話ではありません。元々、立場の違いが大きいので、なかなか難しい。それが実家の茶の間は8年も続き、地域を超えた宝に育っている。これは河田さんの力、皆さんの力があってこそ、です。これからも一緒に頑張っていきましょう」との言葉だった。
席上、長く実家の茶の間と連携してきた「さわやか福祉財団」の堀田力会長と清水肇子理事長からのメッセージも紹介された。「実家の茶の間は、赤ちゃんからお年寄りまで様々な人たちがつながり、助け合い、まさに『地域共生社会』の出会いを進めてこられました。2025年、目指す『地域包括ケア』の実現まであと2年。着実に住民主体のベースを広げてこられた皆さんの取り組みに心から敬意を表します」と、心の籠ったもので、あて先は協働事業者の中原八一・新潟市長と河田珪子代表となっていた。この協働事業は、やはり全国から注目されている。
<青空記者の目>
望月調整官が挨拶で述べたように、「行政と住民グループとが協働事業を続け、成果を出していくことは容易ではない」ことは確かだ。しかし、河田チームは「行政には行政の立場・言い分があり、住民には住民の立場・特性がある」ことを前提にして、いくつもの難関を乗り越えてきた。2020年2月、新潟市にも新型コロナウイルスの感染が拡大してからも、河田チームは「しなやかに、しかし、一方では頑固に」実家の茶の間の運営を続けてきた。とりあえず国が「地域包括ケア」の準備終了を目指す2024年に向けて、河田チームと新潟市の協働事業の歩みは続く。それは「実家の茶の間10周年」の節目とも重なる。
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